『フジイ フランソワ展』

Pro_Unrat2008-01-16


「器物百年を経て 化して精霊を得てより 人の心を誑す」

御伽草紙の一文を借りて、フジイフランソワは今展示の挨拶をはじめる。

フジイの作品は大和絵水墨画をベースに独自のグロテスクさをまさに内包という形で見せる。

例えば「桃太郎」と題された作品は、裂かれた桃から内蔵らしきものが見える。

「とらやき−小倉ミント」という作品は一見ドラヤキだが、皮の部分は虎の皮で、挟まれた具材は赤黒い餡とぬらっと光るミントアイス。

「竹林檎図−実」は竹に生った林檎が地面に落ち、割れて内蔵らしきものが見える。それを覗くように鹿が寄り添う。

この展示では大作となる「夢想夜行図」は、フジイがモチーフとしている題材が全面に溢れ、孤立したかと思えば融合し、不穏であるがどこか飄々とした水墨画になっている。

ルイボスティーやエンジンオイルを使用し、古色を付けたフジイの作品は、いかにもエセ時代的で、グロテスクな作品にもかかわらず愛嬌さえ感じてくる。

フジイは「植物は動かない、座禅する生き物だ」という言葉を前置きしてから、『聞こえない声を聞き、見えないものを見るような、植物に話しかけながら水をやるような、意思の存在にウキウキする』と語る。

このフジイの言葉からは、言葉を持たない『もの』への愛情を感じる。

だからこそフジイは油断しない。

言葉を持たない『もの』が人の心を誑す事を知っているからだ。


フジイフランソワの作品に垣間見える二律背反は、おそらく騙し騙されの駆け引きが内包されているからではないだろうか。

折口信夫は自著『国文学』で、「極めて古くは、悪霊及び悪霊の動揺によって著しく邪悪の偏向を示すものを『もの』と言った。万葉などは、端的に『鬼』即『もの』の宛て字にしてゐた位である」と書いている。

折口の「モノ=鬼」説は近来の民俗学では批判されているが、得体のしれない「もの」としか呼べない何かを古来の人々は、生活の場で感じていたのは確かだろう。

「もの」はいつもの暮らしの傍らで、ぼく達を誑そうとしているのかもしれない、しかしフジイは愛情と皮肉で、飄々と「もの」を誑しかえす。

それはまるで「もの」達と遊んでいるかのように思えるのだ。

今年4月22日から豊田市美術館で開催されるフジイフランソワ「内混-remix-」展。

どんな遊びを見せてくれるのか、今から楽しみだ。