−見えないものと見えるもの−
暗闇を経験した事がある。
最悪の起床を迎えたその日、怒号と恐慌の朝をなんとか凌いだ後、知り合いの安否を確かめる為に10キロ程離れた隣の市まで自転車を走らせた。
残骸の隙間をとおり抜け、着いた場所は果たして残骸になっていた。
驚かなかった。おそらく麻痺していたのだろう。
茫然と突っ立っていると、手伝ってくれと声をかけられた。
言われるがままに、モノを体育館に運び込む仕事を手伝った。
何故か体育館は暗く、モノを運ぶ人の吐く息だけがやけに白かった。
声が体育館のステージの奥から聞こえた気がした。
手伝ってくれと声をかけてきた人に、あっちから声がしますよ、と言うと凄い形相で睨まれた。
ステージの奥に目を凝らすと、ただただ暗闇で、何もない。
そちらに向かおうとすると、肩を引っ張られた。
手伝ってくれ、ともう一度言われた。
頷くしかなかった。
1995年1月17日の事だ。
暗闇は人を誘う。
河口龍夫は暗闇の本質をわかって、あえて向き合おうとしている。
ダークボックスと名付けられた作品群。
暗闇の中で、鉄の箱を厳重に閉める。それは暗闇を閉じ込めたというよりも、中の暗闇を確かめたくなる好奇心を誘発する装置のようにも思える。
「闇の中のドローイング」という暗闇の中で画用紙に絵を描くという作品も、暗闇の中に存在する何かを手探りで求めて、それを画用紙の中に閉じ込めているような気がするのだ。
河口は目に見えないものを閉じ込める。
須磨の海岸を定点観測した写真作品は、時間によって形が変化する境界を閉じ込める。
子どもが散らかしたような電気コードの配線にベルや蛍光灯、電熱器といった家電の一部を繋げたインスタレーションは運動そのものを閉じ込める。
種子や植物を鉛で覆った作品群は、あえて温室の中に陳列し成長を閉じ込める。
トロフネに水をはり、蓮の種が乗った舟を浮かべたインスタレーションは、一見子どもの遊び場の印象を与えるが、中心に据えられている水を湛えたトロフネの中に会場を模したミニチュアを目にした時、作品の外側にいたはずの我々さえも閉じ込められている事に気付く。
河口は執拗に自身の作品の中にあらゆるものを閉じ込める。
まるで、閉じ込められてしまう事が人の本能である事を示すかのように。
その理由を、最後の展示室に入った瞬間、逆説として目の当たりにする。
宙に浮かぶ巨大な蓮の舟。
それは今まで閉じ込めたあらゆるものを開放するインスタレーション。
我々は日々、何かに閉じ込められている。それは求めている訳でも、押し付けられている訳でもなく、ただそうなってしまうものなのだ。
しかし、閉じ込め方がわかれば、開け方もわかるはずではないだろうか。
蓮の舟は、開放の一つ在り方のような気がする。
ただ忘れてはならないのは部屋中に濫立する蓮は、花弁を散らした後の実を象った鉛の蓮。
河口は開放に気を許さない。開放と閉塞は表裏一体である事を知っているからだ。
閉塞は開放を求め、開放は閉塞を誘う。
最後の展示室を抜けると、翼を象った作品が美術館の中から外に舞い上がろうとしている中、客は出口に向かう。
これを希望ある開放と捉えるか、新たな閉塞の始まりと捉えるか、作家は観る者に委ねている。
あの日、ステージの奥に在った「見えないもの」。
求めていたのか、誘われていたのか。
答えは闇の中だ。